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ヨシヒロの読書ブログ

ヨシヒロの気が向いたときに読書記録をつけていくブログ(小説・文学・哲学・心理学・経営・経済・ビジネス)

あなたは、なぜ、つながれないのか ラポールと身体知

前書き

私も30代半ばになりましたが、どうも人生で運が悪い。原因を考えてみると、潜在意識かコミュニケーションか身体感覚に問題があるような気がして、『あなたは、なぜ、つながれないのか ラポールと身体知』という本を手に取りました。今日はこの本で私が気になった部分を書いていきたいと思います。 

著者について

著者の高石宏輔さんは慶応大学文学部を中退されており、在学中からカウンセリングのトレーニングを受け始めていたとのこと。その後、スカウトマンを経てカウンセラーとして活動を開始し、路上ナンパの講習、コミュニケーションについての独自のワークショップも開催されているということです。

コミュニケーションを見直すいくつかの方法について

オートマな自分をマニュアルにする

無意識の行為を自覚すること

自分はコミュニケーションが苦手だとか、あがりやすいだとか、自分の気になっている部分を漠然とさせていると、それを一向に解決することができない。そのままでは改善が難しいどころか、ますますコミュニケーションが苦手になってしまう。

 

そして、それらの多くはパターン化している。その積み重ねのパターンの中の一部が他人との齟齬を生んでいたり、自分が納得のいかない関わりを作り出してしまっている。漠然とした形でではなく、いったいそのパターンのどの部分が、自分自身にコミュニケーションがうまくいっていないと思わせてしまっているのか。それを自覚することが、改善への大きな一歩である。

 

茶店などで話をしている人たちを見てみて欲しい。

 

話をしている人たち、聞いている人たちの動きをじっくりと見てみる。話すときや聞くときにどこを見ているか、どのように頷くか、どのような姿勢か、どのような声を出して、どのような言葉を使って相槌を打つか……。毎回それが多彩に変化する動きを見せる人はまずいない。いくつかの決まった動きの組み合わせがその人の全体の動きを形作っている。

 

他人だけではなく、自分自身も同じだ。

 

パターンである限り、その部分は臨機応変さに欠けている。相手の話している感じ、聞いている感じを受けて反応しているというよりも、相手と関係なしに動いてしまっている。

 

その相手とズレた部分が問題を起こしている。たとえば、相手の話を聞いているときに、全く相手のことを見ずに自分の頭の中に思い浮かぶことに意識を向け、何を話そうかと考えてしまうとか。相手の話を何も理解していないのに、「へー、そうなんだ」と答えてしまうとか。そうやって癖になってしまっている部分は、自分が自動的に動いてしまっている意識できていない部分である。

 

その部分を見つけたら、そこで自動的に反応せずに、相手に合わせて正直に誤魔化さずに反応をしたらどうなるだろうかと試してみたり、実際に試す前にどのように反応をしたら違和感がないか想像してみると、改善ができる。

 

どんな人の会話のしかたにも、そうした無意識にとってしまっている動きがある。それをまず見つけ、そのときに自分がどのようなことを思ったり考えたりしているのかを見つめてみると自然と改善の方法が見つかる。

 

そのつど、今自分は何を感じているか、焦りすぎていないか、相手と関係なく自動的に動いてしまっていないかと、自分を省みることはなかなか難しい。時間や余裕がなければできないことかもしれない。しかし、省みられずに続けられる言動が積み重なっていくにつれ、自分がいったいなぜ、どんな気持ちでそのようなことをしているのかを知らずに、忙しくパターンの反応をし続けるだけで一日が終わってしまうようなことになってしまう。

会話を思い出すことの意味

会話のときに、無意識にくり返してきたパターンをやってしまう前に、自分がそのときどきどう感じているかというところに留まり、相手に対して表現したい感情や感覚を味わって言葉にできれば、会話がその場に応じた生き生きとしたものになる。 

 

しかし、押し込められた感情は、会話の最中に感じて、すっと言葉にできないかもしれない。集中しても十分に感じられなかったり、言葉にできなかったりするときもあるが、数時間後、数日後にふと自分がどんな感情を押し込めていたのかがわかることもある。

 

誰かと会話をした後に、「もっと言いたいことがあったのにな」と思ったり、「なんか釈然としないな」と思うことがある。それが押し込められた感情だ。その場ではすぐに感じとれなかった感情や感覚である。

 

そこで相手に伝えられなかった感情や感覚に留まってみる。もやもやした感じや、イライラした感じ、あるいは他の感覚があるかもしれない。そういう抽象的な、まだ明確な形や言葉にはなっていない感覚をじっくりと自分で探ってみると言葉にできるようになる。無理に言葉にする必要はない。無理に焦って言葉にしたときは、それは自分でもどこか違うと分かるだろう。ふと、「あぁ!」という感じで、言いたかったことが見つかるときがくる。いきなりポンと見つかるときもあれば、徐々に感情や感覚の輪郭がはっきりとしてきたり、何かそれに付随したイメージや記憶が思い浮かんだりして、言葉になることもある。

 

これは自分の内面を観察する能力を高める瞑想である。

 

そうやって他人との会話の中で自分に発生した感情や感覚を、自分の内面にうまく潜りながら言葉にする力は一人でいるときに育むことができる。人が目の前にいるときにはなかなか難しくても、一人でいるときには落ち着いて内面を見つめられる。

 

これに慣れてくると、人と話しているときにも何を話していいか分からなくなってしまうことが少なくなったり、またより深い自分の感情や感覚を表現できるようになったりする。大勢の前で話すときでも、読み上げる原稿を準備する必要もなくなり、その場で思ったことを自由に楽しんで話せるようになる。

 

間違わないように準備をしておく必要はなく、目の前に人がいるのを感じて、感覚や感情が自ずと生まれてくるのを待ち、それを言葉にしていく。その言葉の中には、自分の感情や感覚が豊かに詰まっている。

 

他人を魅了する声や身振りも、自分の感情や感覚を素直に感じ取れるようになると自然と生まれてくる。

自分を観察する訓練

歩く

時間に余裕のあるとき、歩きながら感じてみて欲しい。

 

肩の力を抜いて、一歩ごとに身体に発生している緊張を身体全体で感じてみる。足を上げるときにその緊張を感じている場所が徐々に移動して、また下げるときにも別の場所に徐々に移動しているのを感じてみる。

 

歩くときだけでなく、ドアを閉めるとき、何かを飲もうとコップを口に運ぶとき、パソコンのキーボードを叩くとき……日常のさまざまな動きの中でも同じように身体に意識を向けることができる。余裕のあるときにそうしてみると、自分の動きについて色々なことを発見して改善することができる。

 

こうやって身体感覚に意識を向けられるようになったら、自分の気持ちが動きの変化に応じてどのように変わっていくかを観察してみる。身体に向けられる意識が繊細になればなるほど、身体の力は抜け、呼吸はゆったりとし、気持ちも落ち着いて、物事を余裕を持って見ることができるようになっていく。

同調がわかるとコミュニケーションが変わる

自分を感じて、他人を感じる

同調とは何か

人は他人と接するときに考える。

 

どのように話を進めていこうか、相手はどんなことを思っているのか、自分は嫌われていないか、変だと思われていないか……。このとき自分一人の考えの世界の中に入り込んでしまい、目の前の相手との関係が切れてしまう。そして、考えの世界の中に入り込んでしまったがゆえに、心身ともに緊張してしまう。そのとき、相手のことを見ていなかったり、感じられない状態になってしまう。

 

自分の予想通りに会話が展開することを望むのではなく「どうなるか分からないけど、どうなるか楽しみだ」と相手との関係が自然と展開していくことを楽しみにすると身体の力は抜ける。

 

自分の考えの通りになってほしいと望むことが自分を緊張させ、相手との関係を切ってしまうのだ。

 

そういった考えと身体の緊張の少ないほど、リラックスした状態で相手に意識が向けられる。すると、相手と声のトーンや、身体の動きが合っていて、第三者から見ても二人で話している様子が自然に、通じ合っているように見える。

 

このとき気持ちが通じ合い、互いの「つながり」を感じることができる。この状態を「同調」という。同調しているときは身体の動きのリズムや声のトーンが自然と一致する。

 

しかし、自分は相手と同調できていると思い込んだまま、実際は硬直して、自分の考えの中に引きこもってしまっていることがいかに多いことだろうかと僕は思う。自分ができていると思ってしまった時点で、自分と相手に対する観察が失われてしまい、同調できていないことに気づかなくなってしまう。そういうときに仲の良いと思い込んでいた人に関係を断たれたり、裏切られたりしてしまう。

 

その前兆はすでに、同調していないときにあった動きのズレの中に生れていたにもかかわらず、自分は相手と仲が良いと思い込んで、相手や自分を観察することを怠ってしまっていたから分からなかったのだ。それは常に人を疑うということではなく、自分の都合の良いように人を信じすぎないということであり、相手に丁寧に意識を向ける感性である。

 

「同調しよう!」と意識をすると、力が入ってしまい同調できなくなる。意識するのではなく、むしろ今の自分の考えや身体の緊張が目の前の相手と同調することを阻害しているのではないかと自分を観察してみると、それらを手放して自然と同調が起こる。

 

同調し、相手と自分の動きが合っているのを感じられるようになると、相手の気持ちを感じたり、相手に自分が言いたいと思っていることを自分の内に感じて言葉にしたりしやすい状態になる。

同調したらどうなるのか

同調が起こると、動きや筋肉の緊張具合が同じような感じになる。

 

茶店で人と話しているときに水を同じタイミングで飲んだりするのも同調である。また、互いに意識を向け合っているとき、落ち着き具合や緊張具合も細かく見てみると、同じような感じになっている。

 

だから、もし相手の気持ちを分かりたいと思っているのにうまくいかないなと感じていたら、相手と自分の身体の状態や声のトーンを確認して欲しい。同調しておらず、ズレていることがわかるだろう。

 

もしかすると、そのときは、自分勝手に相手のことを考えているだけかもしれない。そう思ったときは、落ち着いて自分がいったい何を考えているのかを観察して自覚することだ。

 

「あぁ……相手のことじゃなくて、自分のことを考えているだけだった」と気づいて、改めて相手に丁寧に意識を向けたとき、自然と同調し、相手の考えや気持ちに、興味をもって無心に耳を傾けられるようになる。

同調するために自分を観察する

自分の身体のどの部分に緊張があるか。呼吸はどのような感じか。そして、どのような気持でいるか。

 

そうやって自分の状態を感じることが、他人を感じるための始まりになる。他人の状態が感じられない人は、緊張し過ぎて自分自身がどうなっているのかを感じる余裕を失ってしまっている。そうなると緊張した状態で他人のことを勝手に考えるしかなくなってしまう。他人のことは、力んで考えて分かるのではなく、ふとそんな感じがするというように感じられるものだ。誰でも仲の良い人に対してはそんな感覚を持っているが、無理に仲良くなろうとしたときには力んでしまって、そのことを忘れてしまう。

相手に意識を向ける

自分を観察してリラックスした状態で他人に意識を向けると、自分の心身の状態が変わるのが分かる。緊張している人を見ると緊張し、リラックスしている人を見るとリラックスする。自分の緊張がなければないほど、状態の変化ははっきりと感じられる。

反対に自分の緊張が強いと、状態の変化は微妙にしか感じられないかもしれないし、全く感じられないかもしれない。

 

たとえば、喫茶店にはいろいろな人がいる。パソコンに向かって集中している人、ぼんやりとしている人、楽しそうに話している人、つまらなさそうに話している人、皆一人一人違う状態でその場にいる。

 

その一人一人に意識を向けて、自分の状態がどう変わるのかを観察してみると、相手によって自分の身体の緊張のしかたと気持ちが変わるのが体験できる。

同調の訓練

同調することで得られるもの

人は空っぽの身体の中で他人を感じる。自分の中にぎゅうぎゅうに考えや緊張が詰まっていたら、他人を感じることはできない。感じられるのは、自分自身の考えと緊張だけである。しかも、感じているのは自分自身の考えと緊張であるにもかかわらず、自分ではそれと知らずに、それらが他人のものだと思い込んでしまう。

 

完全に他人だけを感じることはできない。自分が混ざってしまう。だからこそ、できる限り自分を空っぽにするように準備をする。

 

人と会ったあと、対話しながら感じ取ったと思った相手の姿は、自分自身の考えと緊張であったのではないかと見直す。

 

身体に残った違和感、高揚感、緊張を自分自身で捉えながら、それらを静かに感じてみる。そうすると、落ち着いてきて、相手だと思っていたものの一部は、相手に投影していた自分自身の姿であったっことに気がつく。

 

そうして自分自身の姿、振る舞い、思考を、他人と接しているときや、接したあとに見直してみると、自分がいかにいろいろなことを思い込み、他人と自分を混同しているのかが分かる。そうやって他人と接し、自分を見直し続けていると、次第に自分の中の思い込みが消えていき、他人をよりフラットに感じることができるようになっていく。

 

他人と自分を混同して起こる怒りや共感を、自分から引き離して見ることができたとき、自分がどのようなことを感じ、どのようなことを思い込んでいるかということに気づく。そうすると、怒りを感じることが少なくなったり、他人に盲目的に熱狂したりすることがなくなってくる。

同調の質をより高めるために

自分のコミュニケーションのパターンを見直す

自分の口癖、よくしている動きを探してみる。そして、その口癖や動きのときにどのような気持でいるのかを感じてみる。たとえば、話すときに膝を摩っているとか、話す直前に唇に力が入るとか……誰でも何らかの動きの癖がある。よくやっている癖であればあるほど、知らない間にやっていて、そのときにどのような気持でいるかを自覚できていない場合が多い。その動き、癖が悪いものだからなくさなくてはいけないということではない。無自覚にしてしまっている動きを認識することで、より自分自身の動きや気持ちに対する観察力を上げることができる。知らずにやっている動きの癖の中には、自覚していない自分の感情がある。

 

同調を妨げるのは、無自覚な感情だ。自分のそのときの感情に気づかず、知らぬ間に考えたり、動いたりすることで、他人を感じることよりも、自分自身の中に籠ることを優先してしまっている。自分の感情に気づいている分だけ、他人に意識が向き、同調することができる。

 

たとえば、相手への恐怖から、相手のことを警戒して必死に見ている人は、自分が必死に見ていて、そのために目の周りに力が入っていることを知らない。

 

また、自分の恐怖という感情と、目の周りの緊張を観察できていないため、同調できていないことも知らない。

 

このように本人が気づいていないところは誰の身体にも存在している。それを自覚するだけで、その部分の緊張が抜けて、相手のことがそれまでよりも分かるようになる。この場合は自分が相手のことを怖がっているということを素直に認めることで相手に同調できるようになる。

自分の心身を、他人をそのまま映すための人形として扱う

相手の会話に合わせて、何かをしなければいけないという思い込みをいったん捨ててみて、自分をただ相手の前にある人形だと思ってみる。その人形は、相手の状態をそのまま映し、筋肉の緊張具合も、動きも、同じようになると思ってそのようにしてみる。そうやって、同じような身体の状態で、感情を感じようとしてみる。相手に対する気遣いはせず、ただ同じように感じるだけの人形になりきる。

 

相手のために何かをしなければいけないという意識を抜いてみて、相手の状態を感じることに専念したら、相手に対して同調することができる。

 

もちろんそうするだけでコミュニケーションがうまくいくわけではないが、この感覚を得ることで、他人を感じることができるようになる。

 

こうやって落ち着いて相手に合わせてみると、相手にどう働きかけようかと考えることが、相手のことを感じるのをどれだけ妨げているかが分かる。

茶店でトレーニングをする

茶店などで、別の席で会話している知らない人たちの様子を見て、身体の動きのどうちゅの具合を観察してみる。たとえば、一方が話したあとにもう一方が必ず乾いた笑いをするとか、過剰に頷くとか、一方は身を引いて腕を組んでいて、もう一方は身を乗り出しているとか、二人のズレを探してみる。

 

たとえば、一方はゆっくり話しているのに、もう一方は「うんうん」とはやく頷いているなど、二人がずれた動作をしているときは、互いに何か別のことを考えている。

 

このトレーニングは、自分は他人と対面せず、観察をするだけなので、落ち着いてできる。実際に相手を目の前にすると、相手に返事をしたりしなければいけないので難しい。まずは自分が相手と対面していない状況で動きのズレを見つけることができるようになると、他人と対面して話しているときにも自然と自分と相手とのズレを見つけることができる。

 

人は必ず他人とズレている。全く同じということはありえない。そう思って見てみると、細かいことにも気がつくようになる。

 

また、他人同士のそういうズレた動作を見つけられるようになると、普段自分が同じようなズレた動作をしていることにも、気づき始める。他人のズレを見て、「自分が同じようなことをしているのではないか」と疑ってみると、自分自身を省みる機会を得ることができる。

自分自身で変化を生み出すシステム

新しい感覚が生まれるのを待つ

自分の感覚を失う機会は世の中にたくさんある。

 

感動すると宣伝されている映画を観て感動したり、美味しいと言われているお店に行って美味しいと感じたり……どちらもそれを味わう前にすでに特定の感覚を期待してしまっているかもしれない。それとは別の感想を持つとしても、はじめに与えられた感覚と比べてみたり、反対してみたりといった感じで、なかなか一度期待してしまったものから離れることは難しい。

 

とはいえ、それが本当に自分自身の感じたものなのか、それとも期待したものを感じているだけなのかを吟味することに注意を向けて、選り分けようとしたら、余計に混乱してしまう。

 

大事なのは、それがどちらであるかということよりも、自分自身がさまざまな機会に触れて、新しい感覚が生まれることを楽しみにしているかどうかだ。楽しみにしていると、自ずと新しい感覚が生まれたことに注意深くなる。思った通りの感覚を引き起こしてもらおうと他人任せにしていると、期待通りのことが起きなかったことを残念に思ったり、酷いときは怒ったりしてしまう。そのときには、はじめに期待した感覚にしか意識が向けられていない。そうなると、それとは別に自分の中に生まれている感覚に気がつかなくなってしまう。

 

ある機会に触れて、良いものでも悪いものでも、自分にどんな反応が起こるのかと構えずに楽しみにしてみることが、新しい感覚の芽生えを見るコツだ。そうすると、自分では思ったことのない反応が自分の中で起こるのが見つかるかもしれない。

悩みを解決するために硬直した筋肉をほぐす

身体を動かすエクササイズは自分の中に芽生える感覚を待って捉えることを訓練するのに適している。悩んでいる心身の状態では、いくら考えてもなかなかアイデアが出ない。どう解決するかを考えるのではなく、状態を変えて良いアイデアが生まれるのを待つ方が早くアイデアが出る。このときに身体を動かすのはとても便利だ。なぜなら、考えたりして気持ちを切り替えるのはなかなか難しいが、悩んでいるときの硬直した身体をほぐすことは簡単にできるからだ。

 

身体を動かして筋肉をほぐしたり、考え込んでしまって雑になってしまっている体感覚を繊細にし直したりすることで、自分に新しい感覚が生まれる機会を与えられるようになる。

 

そうやって身体の固まった部分がほぐれていくと、何かが思い出されたり、思い浮かんだりする。そのときはそのまま考えずに、思い出されたことや思い浮かんだことをそのまま観察してみると、何かアイデアや新しい発見に発展していく。

 

このときには、より丁寧に身体のほぐれていく様子を感じることが大切だ。身体の変化を観察していると、自然と考え込んでいる状態から自分の内面を感じる状態に変わっていく。考え込んでいるときは筋肉が硬直している。思い浮かべているときはリラックスして筋肉がほぐれている。悩みを解決しようと意気込んでしまうと難しい。やりながら、その意気込み自体が自分の身体を固くしてしまっていることに気がつくことができれば、新たな変化が生まれやすくなる。

空間と他人を認識する

悩んでいるとき、無理をしているときは物にぶつかったり、躓いたりし易い。また人にもぶつかりやすく、酷いときはぶつかったことにすら気がつかない。声が極端に大きくなったり、小さくなったりもする。

 

何かに必死になり過ぎていたり、気分が落ち込んでいて人の顔を見るのが少し怖くなっているようなときに、空間と他人を認識できていない状態になる。そのとき、少しずつ空間と他人を認識するようにすると、徐々に自分の感覚や感情も感じられるようになる。

 

悩んでいたり、何かがうまくいかないなと思っているとき、身体を動かしながら、周りを感じることに意識が向けられているだろうかと観察してみると、うまくいかなかったり、考え込んで悩んでしまう状態を良くするきっかけになる。目に映っているものを認識できているだろうか、身体の後ろにあるもの、横にあるものを感じられているだろうか。足元、頭の上にあるものを認識できているだろうか。

 

特に目は、瞼を開けているからといって、目に映っているものを認識しているとは限らない。自分の考えに没入しているときは、瞼を開けていても見えていない。その状態になっていないか自分で確認をしてみる。

 

認識している空間の範囲もより広く感じられるようにしてみる。外にいるときなら、半径三メートルくらいから、五メートル、十メートル、前方だけでなく、後方にも広げていって、より広く周りを丁寧に認識していくというイメージを持ってみると、苦しく自分に閉じ籠っているところから開いてあっているいく感じが味わえる。

 

また、他人と話しているときには、自分が相手に出している声は、相手にとって大き過ぎないか、小さ過ぎないかと感じてみると、今自分が相手に意識が向けられているかどうかが分かる。特に対人関係の仕事を一生懸命にやっている人は、少し興奮状態になって声が大きくなりがちだ。

 

そうやって、自分の空間や他人に対する認識を見直してみると、考え込んだり、悩んだりしている状態から、丁寧に、落ち着いて、自分の感覚や感情を観察できる状態になることができる。

与えられることによって停滞することもある

世の中にはアドバイスを受けたい人々、アドバイスをしたい人々で溢れている。誰かの言う通りにやってうまくういったら楽だし、自分の言う通りに誰かがうまくいったら自分の考えの正しさが証明されて心地よい。どちらにとってもメリットがあるからそれでも良いと思う人もいるかもしれない。

 

しかし、アドバイスは新しい感覚を自ら芽生えさせるのを奪うこともある。

 

反対に、自分で漸く出した答えは積極的に試してみたくなる。

 

「うまくいくかわからないけど、自分の考えたやり方でやってみよう」

と思うとき、期待と不安の引っ張り合いの葛藤の中で人は行動をする。その葛藤はおきには、自ら進む強さを自分自身に感じさせ、失敗したときにはもう一度やってみようと思わせ、成功したときにはまた先に進もうと思わせてくれる。

 

しかし、他人に言われた通りにやってみるとき、うまくいったとしても、自分で出した答えを信じて行動をとってみる葛藤を味わえない。うまくいかなかったときはアドバイスをした相手のせいにしてしまうこともある。自分の出した答えを試したわけではないから、失敗を糧にまた別のやり方を試そうとはなかなか思えない。自分で試行錯誤をし、自分自身の感覚と自分の出した答えを信じる感覚が育っていく芽をアドバイスは摘んでしまう。

 

自分で考えることができないから、また誰かのアドバイスを必要としてしまい、なかなかこのループから抜け出すことができない。

 

そのループにはまった人たちの多くは、自分の感情や感覚を観察できなくなってしまっている。彼らは実際には感じているのかもしれない。だけど、自分で感じたことに確信を持つことができなくなっちるのかもしれない。

 

彼らは自分の内面を観察するメリットをまだ知らない。内面に自分を活かす答えが眠っているのに、他人からのアドバイスを求める。他人から与えられたアドバイスでしか、自分の悩みは解決できない。正しい行動は見つからないと思っているからだ。

 

そういう人たちは自分自身の感情や身体感覚の観察力が落ちている。観察力が落ちていると、自らの問題点を見つけて、それを改善するという学習がしづらい。

 

自分の感情や感覚を自覚しながら、自分で発想して、試して、その成功、失敗に一喜一憂する中で、自分で考えるための感覚は育まれていく。そのことを実感したときに、人は他人にアドバイスを求めずとも、自分で進めるようになっていく。

 

また、そうやって自ら答えを見つける感覚を育む経験を積んだとき、その人もまた他人に無闇矢鱈にアドバイスをせず、他人の感覚が育まれるのを待てる人間になる。

トランスを「生きるための技術」として考える

意識は内側に向いているか、外側に向いているか、それとも両方に向いているか

トランスとは、意識が内側、外側の両方に向いている状態である。

 

自分の気持ちや身体感覚を感じながら、目の前の相手のことを認識したとき、人は同調する。そうすると、自分の内面の感覚が同調した相手に応じて変化する状態になる。そのとき、相手に対するさまざまな感情、感覚、イメージが湧いてきて、それらに導かれるように対話をすることができる。

 

目を閉じて自分の内面の感覚を感じて、内面に集中できたらその状態のまま目を開けて相手を見てみると、その相手に応じて自分の感覚が変わる。このときに、ただ見るだけの状態になってしまい、自分の内側に対する意識が途切れると、同調が切れて相手を感じられなくなる。また、自分の内側に対する意識だけになり、自分の気持ちや身体感覚だけを感じていると、相手に意識が向いていない状態になってしまう。

話を聞くこと

話を聞くとき、相手の言葉、話し方を見聞きしながら、自分の感情や感覚がど動くかを観察することで、その話に込められた感覚や感情、イメージを捉えることができる。美味しい食事を話を聞いているときには、その食事の様子が、相手の言葉によって想起されていくように聞くことである。「焼肉を食べたんだけど」と言われたときに、肉を味わう感覚が想起されて唾液が出たり、嬉しそうな声のトーンから楽しんで食べた様子が感じられたりする。

 

トランスに入っていると、そうやって、相手の話を聞きながら感情や感覚、イメージが想起されていく。もし相手に嫌われないように気をつけて聞いていたら、それらが想起されている暇はなく、相槌の内方もどこか空々しく、返答も話の内容から逸れたものになってしまい、結果的に相手に話していて面白くない、聞いてくれている感じがしないと思わせてしまう。

 

しかし、自分の内側に入り過ぎてしまっていると、思い込みで相手に嫌な思いをさせてしまう。たとえば、他人の話を聞きながら、「自分だったらこうするのにな」と思い、すぐに他人にアドバイスをしてしまったときは、自分の内側に入り過ぎている。話の内容に応じて「この人はこういうことを思ったのだな」、あるいは「この人はこういうことが苦手なんだな」などと感じられているときには、自分の内側に入り過ぎていることはない。「自分だったらこうする」と思い浮かんだことを「こうした方が良い」と伝えてしまったときには、内側に入り過ぎていて、自分と相手の区別がついていない。言われた相手もその意見に反発を覚える可能性が高いだろう。

 

そのときにはもう自分の考えで頭がいっぱいで、目のまねの相手は見えていない。ある時点から話している他人を無視してしまっている。話し手はそういう自分の姿や受け答えから、話を聞いてくれていないと思うだろう。

 

トランスに入っていると、相手の話を聞きながら受け取った一つ一つのイメージを頼りに自分の中で映画が展開されるような感じになる。そうしていると、その人が主観的に体験した豊かな物語が感じられてきて、相手の話を感情と身体感覚を伴って受け取ることができる。

くり返されるテーマ

悩み続ける人は、その悩みに捉われている自分自身を嫌っているから、同じことで悩み続けてしまう。

 

自分について回る悩みを、自分自身のテーマとして丁寧に扱ってみると、新しい行動や認識を得ることができるようになる。反対に、その悩みを忌み嫌うと、自分が一向に進歩しないように感じられ、自信をなくし、実際にもあまり行動の変化が現れない。

 

嫌悪感を伴いつつも強烈に惹きつけられてしまう物事を、さまざまな視点で見ていくと、自分が人生の中で望んでいるものは何か、そして、それを得るためにはどうすれば良いのかということが徐々に見出されていく。

 

そうやって、悩みをくり返されているテーマとして見つめてみると、明らかに自分の日常の過ごし方が変わる。自分がどのようにそのことを気にしているのかを客観的に捉えられるようになり、自分のことを冷静に観察する視点が生まれる。

 

そうして観察し、普段からの無意識的な反応を自覚すればするほど、身体感覚が細かく鋭敏になる。たとえば人と接したときに、こんな風に怖いと思って身体を強張らせていたのだということに気づくようになる。そうして、自分の動きを知れば知るほど、硬直して思考停止にならなくなった文だけ、感情が多様に感じられるようになる。

人の話を聴くということ

外から見て美しいか

相手に質問をしたり、相槌を打ったりする前に、そこに自分のエゴがないかどうかを確かめる必要がある。相手の役に立ちたいとか、話を聞いてもらえたと思われたいという気持ちがないかどうか。その応答を発話するとき、自分の中に傲慢さは生まれていないだろうか。発話しようとするときに、表情に自らの傲慢さを示す筋肉の緊張は生まれていないだろうか。

 

悩みを話す人に対して、自分の方がものをよく分かっていると思い込んでいる聞き手の姿は美しいものではない。相談を受ける立場に身を置くと、知らない間にそのような状態になってしまいやすい。

 

話を聞く人間は、ただ相手の世界を知ろうとする人間でしかない。自分の方がものを分かっているとか、相手のことが見えていると思うと、上からアドバイスをする人間になってしまい、外から見たら、聞く側が傍若無人で、自らの傲慢さを晒しているように見える。そのときは目の前の相手にも良い印象ではない。そのために、こちらに心を開いて会話をしたいとは思えないだろう。

時間を細分化し、観察する層を増やす

誰でも、言葉を発するときは、それぞれの言葉にそれぞれ異なる感情、感覚、イメージがこもる。たとえば、「青」と一つの色を発話するにしても、そこに込められる感情、感覚、イメージは皆違う。

 

一つ一つの言葉の発話は、ただの記号というよりは、それが感知され難いほど微弱であろうと、制限できないほど強いものであろうと、自分の情念の表出である。だから、一文はただの一文として意味を伝えるものではなく、連続した情念の表出なのである。

 

このとき、声のトーンの変化だけではなく、身体の動きにも変化が表れる。手を握り込んだり、瞼を閉じたり、表情がそこだけ特に変わったり、何らかの反応がある。

 

相手の話を聞きながら思い浮かんだもの、気になったものを丁寧に拾っては捨てながら、その話のいく先を見守っていく。

 

相手の言葉の一つ一つに敏感になるために、自分が話しているときに、言葉に感情や感覚、イメージをどのように込めているかを感じてみるといい。ほとんどは無意識的に行われていて、自分では気づいていないかもしれない。

 

自分の言葉の中にある、知らないうちにこもっている感情や感覚、イメージに気づいたら、他人の話している様子を観察してみる。これも前述の喫茶店での稽古のように、他人同士が話しているのを観察するところから始めた方がやりやすい。そうやって他人の会話を聞いてみると、その中にいろいろなものが詰まっていることが感じられ、相手の話に興味深く耳を傾けられる。

相手の感情に反応すると、話が流れ始める

淡々と、起きたことが羅列されるような、事柄のみを伝える話からは、なかなか話し手が何を伝えたいのかが掴みにくい。そこに話し手の感情を読みとることが難しい場合、つまらないと感じたり、こちらが相手の感情を少ない情報からたくさん想像しなければいけないので、聞いていて疲れたりする。一方で、話を聞きながら、その人がその中で喜んだり、怒ったりしている様子が見えると面白く感じられる。そのときは聞き手が話し手の感情を推測する必要もないので疲れない。

 

多くの個人の体験は、誰にでも起こるようなものでしかない。しかし、その一方で、目の前のその人が感情や感覚を伴って体験したという意味では特別なものである。それは自分自身の体験も同じだ。どんな体験もきっと別の誰かがすでに体験していることだが、それを体験したということは、そのとき限りの感情や感覚を味わったという意味で自分自身にとっては特別なことだ。

 

自分の体験をそうした特別なものだと扱えていないとき、自分の感情や感覚を感じられなくなっている。また反対に、自分の悩みが世の中で唯一無二のものだと信じ込んでいるような場合もある。そのときは、それが他の人も体験しているありふれたものであるかもしれないという視点が欠けている。

相手の話からイメージを作っていく

他人の話を聞くときのコツは、とにかく相手の伝えたいことを受け取ろうとすることだ。

 

自分の中に相手から聞いた話はイメージとして広がっているだろうか。一つ一つの言葉から相手の体験したことを自分の中にも作っていくと、イメージを作り上げるのに欠けているものが見つかる。そしてその部分がどうなっているのかを聞いてみることで、相手と一緒に話を展開させていけるようになる。

 

相手の中にあるイメージはどんなものなのかに関心を寄せ、そのイメージを自分の中にも作り上げることに集中していると、そのような余計なことをせずに聞けるようになる。